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2009年11月

2009年11月29日 (日)

50年前の大学入試科目と放送大学の数学科目【その1】

25年前に放送大学に第1期生として入学し、「自然の理解」専攻
に決めたことは前にも述べた。しかし私は正直なところ、自分が
果たして理系科目について行けるのか、心配でならなかった。

それでも放送大学でなんとかなったのは、私が卒業した高校が
いわゆる受験進学校でなかったお陰だと思っている。

高校時代、理系科目は「数学 I (代数)」「数学 I (幾何)」「数学 II 」
「数学 III 」「物理」「化学」「生物」「地学」があったが、「地学」以外は
全部必修だったと言うと、驚く人が多い。

いわゆる進学校では、受験の能率のため、早くから文系・理系に
わけて、受験科目以外の「無駄な」科目はなるべく履修しなくても
いいようになっているようだ。数年前にも各地の進学校で必履修
科目の未履修問題が大量に発覚し、卒業可否が云々されたことは
記憶に新しい。

しかし私の高校は大手私大の付属校だったため、文理両方の
エスカレーター進学に対応するために、文系志望者にも微分・
積分まで必修にしていた。

推薦入学を辞退して進学した大学の入試科目がまた過重だった。

文系・理系各学部同一問題で、各学部とも外国語、国語(甲必須、
乙または漢文)、数学(数学 I 幾何・数学 II ・数学 III から2科目)、
社会(日本史・世界史・人文地理・一般社会から2科目)、理科
(物理・化学・生物・地学から2科目、工学部だけは物・化必須)
の計5教科9科目である。

高校や大学入試で強制されなかったら、私は生涯微分・積分など
とは無縁だったに違いない。今から50年前に多少は勉強したこと
が、25年前放送大学に入学して、大いに役だったのである。

それでも放送大学の数学にはかなり苦労した。高校当時の
「数学 III」には順列・組み合わせ・確率・統計が含まれていたが、
大学入試の範囲から省かれていたので、勉強していなかった。
また「線形代数」や「集合」などは全く履修していなかった。

放送大学での「基礎数学 I」は微分・積分なので、高校時代の
延長で比較的楽について行けたが、「基礎数学 II」「基礎数学
III」は線形代数と集合で、何とか試験には通るが、終わった
とたん全部忘れてしまう。「確率論・統計学」も同じである。
評価:「基礎数学 I 」 86年1学期 A 「基礎数学 II」 86年2学期 B
    「基礎数学 III 」88年3学期 A 「確率論・統計学」(4単位)
    86年3学期 B

若い頃の地道な努力は身につくが、年取ると短期記憶には
残ってもなかなかものにはならないとつくづく身にしみた。

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2009年11月24日 (火)

放送大学に初入学した頃【その2】 25年前にとった科目と再履修制限

1985(昭和60)年、第1期生として放送大学に入学することになった。

この年は2年次、3年次編入制度はなく、大学既卒者は外国語
8単位を含む30単位が認定されるだけだった。当時舅や小学生
を含む3人の子供もいて、なるべく外出は控えたかったので、
必修の体育実技と保健体育は認定に甘えることにした。

1学期はとりあえず「地球と宇宙」2単位、「人間の生物学」2単位、
「現代の経済と経済分析」4単位、同面接1単位、「フランス語 I」
4単位と、基本・基礎科目と外国語科目の計13単位を選択した。

経済学とフランス語はともに週2回放送の4単位科目だったが、
昔大学で専門課程レベルを囓ったこともあって、いわゆるパン教
程度なら何とかなると思ったのだが、授業の進度の速さには
いささか戸惑った。面接授業のレベルも満足できるものだった。

結果は「現代の経済と経済分析」 B、 同面接 合格、
    「フランス語 I 」 A、「地球と宇宙」 @、「人間の生物学」 A

さて「現代の経済と経済分析」だが、この科目は25年後の2010年
になっても再履修制限がかかっていて、その後次々に開講された
「経済学入門」「経済学入門00」「経済学入門04」だけでなく、現在
開講されている「経済学入門08」も履修出来ない。

25年前の「現代の経済」や「経済分析」が今も通用するのだろうか。

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2009年11月20日 (金)

放送大学に初入学した頃【その1】 「自然の理解」専攻の理由 

初めて放送大学設立計画のことを知ったのは、結婚して間もない
昭和40年代初めだった。自宅でテレビ・ラジオで勉強できるなんて
夢のような大学だと思ったが、当初は関東地方だけとのことで、
当時住んでいた山口県の小都市と、あらゆる機会に恵まれた
首都圏の格差が身にしみただけだった。

いよいよ来年から放送大学が関東地方で授業を開始すると
報じられた昭和59年になっても、私はまだ山口県にいた。
ところが学生募集開始の寸前に、思いがけなく夫が東京転勤
になり、夢の大学に手が届くようになったのである。

東京へ来て初めて、自分の用事で外出したのは、放送大学の
願書を配布初日に、東京第一(現世田谷)学習センターに取りに
行くことだった。東横線学芸大学前駅から、さんざん迷って、
やっとたどり着いたそれらしきところは、旧図書館短大跡で
改築工事中だった。隣の学芸大附属高校の守衛室で、願書を
もらったことを覚えている。

学修案内を何度も読み、改姓届も出していなかった出身校に
戸籍抄本を添えて卒業証明書と単位取得証明書を申し込み、
書類をそろえた。先着順に入学許可とあったので、願書受付
初日の朝、7時頃に郵便局に行って、速達で送付した。

最初は「人間の探究」で歴史と語学でも勉強しようかと考えて
いたが、学修案内を見て考えが変わった。若い頃勉強でき
なかった理系科目が、ここでは系統的に学べる。これだ!
迷わず「自然の理解」を専攻することに決めた。43歳だった。

若い頃から理系科目に関心はあったが、どちらかと言えば
不得手だと感じていた。若いということは、一見豊かな可能性
にあふれているように見えても、人生のスタートラインで失敗
は許されない。でも、今ならやりたいことにチャレンジできる。

たとえ成績が悪くても、単位が取れなくても、親に申し訳なく
思うことも、卒業できないと悩むことも必要ないのである。
目の前が一気に開けたような気がした。

初めて大学に入学したのが1960年、2度目に放送大学に
入ったのが昭和60年。60は私のラッキーナンバーである。

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2009年11月17日 (火)

来年度「ドイツ語基礎」「フランス語基礎」がなくなった!

毎年今頃になると、楽しみにしていることがある。
来年度の授業科目案内で、新開講の科目を見つけることである。
特に外国語科目。

というわけで、早速平成22年度の授業科目案内をgetしてきた。

なんと、今年限りで閉講される「ドイツ語基礎06」「フランス語基礎
06」(それぞれ入門 I 、II に続く第3段階)の代替科目がない!
英語も今年の6科目から5科目に減っている。

昨年閉講された「ロシア語入門 I 05」「ロシア語入門 II 05」の代替
科目が、今年はとうとう開講されなくなって、ロシア語が全くなく
なったのに続き、またまたの語学科目縮小である。

放送大学開学当初には、ドイツ語、フランス語ともに10単位分が
開講されていた。内容も講読だけではなく、作文科目もあり、
そのレベルも、どこへ出してもひけを取らないと思われた。
それがわずか4単位にまで減らされてしまうとは。

私は放送大学で学ぶのが一番効果的な科目は、外国語であると
いつも思っている。録音・録画して何度も繰り返し学習でき、
ネイティヴの発音がたちどころに聴けるという利点は、一般の
通学制の大学を遙かに上回るものである。

「フランス語 III 02」などは、ゲストのフランス語での解説が
素晴らしくて、フランスの大学で仏文学の講義を聴いて
いるかのようだった。授業について行けてはいなかったが、
私のフランス語学習の最終目標はここだとさえ思えた。
試験は、訳読と文法さえ出来れば何とかなったが。
(2005年2学期 評価A)

他の科目は、あるいは書店で専門書を求めれば、放送大学の
講義と同じことが学べるかも知れない。しかし、語学こそこの
大学の最も得意分野ではなかったか。

今後、是非これらの外国語科目を復活し、さらに中級以上の
外国語科目をも増やして欲しいと願っている。

 

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2009年11月12日 (木)

「韓国語入門 1」補習(面)とハングルキーボード

今学期外国語は「初歩のアラビア語06」と「韓国語入門 II 06」を
取っている。どちらも私にとってはキツイ科目だ。しかもまだ全く
手をつけていない。

前にも書いたが、韓国語は「韓国語 I 02」と「韓国語入門 I 06」
を、試験前それぞれ1週間ほどの勉強だけで、どうにかC評価
で合格したが、当然のことながらすぐに全部忘れてしまった。

そこで今学期は「入門 II」の勉強に入る前に、復習のために
表題の面接授業を取ることにした。先週の土・日と次の土・日
で、何とか文法の復習をしたいと思ったのだが、どちらかと
言えば会話に重点が置かれていて、8人ばかりの少人数
クラスなので授業は楽しいが、目的は達せられていない。

以前韓国語を始めた頃、韓国語ワープロソフトを買ったが、
ほとんど使わないままで、vista 非対応になってしまった。
今回また散財せねばならないかと思案していたが、幸い
windows の機能だけでも、韓国語が打てるので、またまた
語学の勉強そっちのけで、キーボード練習に励んでいる。

電子辞書でも同じだが、韓国語とロシア語の不便なところは、
キーボードに不慣れなことである。ロシア語ではスクリーン
キーボードが表示できるが、韓国語はそれも不可能なよう
なので、今回思い切って三星電子製のハングルキーボードを
買ってしまった。2,600円。ローマ字入力なら日本語も不自由
なく打てるので、ちょっと記号配置が違うことを別にすれば、
いちいち日本語キーボードと付け替えすることもない。

今学期の目標として、何とか韓国語のブラインドタッチを
マスターしたいものだと願っている。

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2009年11月 9日 (月)

放送大学初期の情報処理科目【その2】「情報工学」など

期待していた「情報工学」が開講されたのは1987年だった。これまで
全く原理もわからないままに使っていた電卓やPCの大まかな仕組
が何となくわかって、目から鱗が落ちる思いがした。

電気系に強い人なら常識だろうが、and回路とor回路の組合わせで、
様々な論理回路が作れるのが面白くて、夢中になった。プログラムと
言語、アルゴリズム、ソフトウエア、計算機にできること、できない
ことなどを学んだ。授業内容は難しかったが、試験は簡単だった。
(1990年1学期 評価@)

当時のPCはDOSコマンドを使っていたが、私は古いPCしかなく、
文書作成・表計算・住所録管理などはワープロ専用機を使っていた。
今思えばお笑いだが、テレビ授業で都倉教授がマウスを操作する
のをみて「これ何?」と驚いたことを覚えている。

同じ頃「統計学(面)」89年「情報工学(面)」90年「情報処理実習
(面)」90年「データベース実習(面)」96年などをとり、PCに徐々に
なじんで行けた。放送大学がなかったら、仕事でPCを使う機会など
全くない専業主婦の私は、今でもPC音痴で時代に取り残されて
いたに違いない。

以上の諸科目は自分でプログラミングすることを前提としていたが、
93年にWindows3.1が発売され、以後市販ソフトが急速に普及した
結果、97年に「情報基礎管理学」を取ったときには、Excelなどの
市販ソフトを使用するようになっていた。

私が情報系を受講した頃は、これらの科目は「自然の理解」か
「産業と技術」あるいは基礎科目自然系に分類されていたが、
2009年から科目編成が変わり、「コンピュータのしくみ08」など
PC系は「人間と文化」コースに分類されている。ほんの20年前
には一部の技術者のものだったPCが、誰にでも使える時代に
なったことを反映していると思う。

3台目のワープロ専用機に替えて、2台目のPCを購入したのは、
Win3.1時代の94年だったが、この頃のワープロ機能はまだ
専用機の方が優れていた。当時「自然の理解」「産業と技術」
「社会と経済」に続く4つ目の卒論(「発達と教育」)を執筆して
いたが、結局4つ目もワープロ専用機で書き上げた。

「生活と福祉」の卒論を初めてPCで書いたのは96年で、「一太郎」
を使った。現在ワープロソフトは「Word」の方が一般的だが、
私は今でも本格的な長文を書くときは「一太郎」を使っている。

98年末、3台目のPC(Win95搭載機)で6冊めの卒論を完了
すると、自分へのご褒美の意味を込めてPCを自作する
ことにした。ほとんどPCショップの人の言うなりにキット状態の
部品を買い、店でビデオを見ながら組み立て、わからない
ところは丁寧に教えてもらうのだから、誰でも出来る。

しかし、当時既に50代後半だったオバサンが、自作PCと格闘
しているのはかなり珍しかったらしく、「すみません。写真を
撮らせてもらっていいですか?」と言われた。全く素人の
女性自作PCユーザーとしては、日本最年長だったのでは
ないかと思っている。

できあがったPCはWin98搭載機で、ちゃんと実用になった。
ただし、モニター(以前のPC用を使用)もなしで20万円ほど
したので、コスト的には全くメリットはない。

その後、WinXP、WinVISTAとOSが変わるたびに買い換えて、
現在のPCは6代目。他にミニノート2台も買った。道楽である。

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2009年11月 5日 (木)

放送大学初期の情報処理科目【その1】 「数値計算とデータ処理」

放送大学第に1期生として入学したのは1985年、それから25年
が経った。これはそのまま我が国で、PCやインターネットが
個人の家庭に、急速に普及した時代と重なっている。

私の初めてのPCは1981年、NECのPC-6001だった。
BASICで自分でプログラムして使うもので、雑誌に掲載されている
プログラムをひたすら打ち込むと、ゲーム機にはなった。別売の
ゲームソフトもあり、結構はまっていたが、自前のプログラミングは、
私の能力では、せいぜい穴埋め算パズルを解く程度だった。
カラーモニタ、ゲームカセット、データレコーダー等合わせて15万円位。

その後ワープロ専用機が普及し始め、1984年に買ったシャープの
WD500は28万円で、液晶画面表示が2行、フロッピーもついて
いないものだったが、それまでの邦文タイプ、英文タイプとは
違って、画面を見て間違いがないことを確認してから印刷できる
のが便利で、大いに満足だった。タイプライターは打ち間違うと
訂正が大変で、見栄えも悪くなるし、時間もかかる。

放送大学1年目の1985年、「英語 I」面接のレポートをワープロで
出したら、先生にも周囲の学生にも羨ましがられたが、その後
ワープロの専用機の価格低下と性能向上が進み、急速に普及して
1988年に2台目のワープロで卒論を書いた頃には、さほど珍しい
ものではなくなった。

「数値計算とデータ処理」【自然の理解】は1985年開講の情報処理
系科目で、週2回の4単位科目。BASICを用いた数値計算や
統計学のプログラミング、PL/Iでのファイル処理などを学んだ。
PCを持っていなくても受講可能だったが、進度が速くて初めての
学生は大変だったと思う。私はBASICをかじっていたお陰で何とか
なった。(87年2学期 評価B)

この科目は3年で閉講された。理由は不明だが、PCの性能や
プログラミング手法が激変したのと無関係ではないと思う。
私にとっては、PCで何が出来るのかを学習できた記念すべき科目
である。

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2009年11月 2日 (月)

教授とのコミュニケーション(放送大学の場合)

放送大学に入学した当初、この種の大学では、卒論(当時必修)
指導以外では、教授との個人的な接触は望めないものと半ば
諦めていた。面接授業といえども、わずか5回(当時)きりである。

ところが入学2年目、「衣生活概論」の通信指導(記述式)が返却
されたとき、担当の矢部章彦教授から、是非研究室を訪ねて来る
ように、とのコメントを頂いた。

早速お邪魔して「自然の理解」の専攻特論(卒論)の方法論などの
お話を伺ったが、その際、放送教育開発センター発行の雑誌に、
面接授業に関する話を書いて欲しいとの依頼を受けた。

通信指導と、実験面接授業のレポートの内容で執筆者の目星を
つけられたようだった。手抜きせずに良いレポートを書けば、
先生に名前を覚えていただけるとの感触を得た。

渡辺融教授が就任されたのは1994年のことである。野球大好き
人間の私が、関西の某大学の学生だった頃、渡辺教授は年に
一度定期戦で対戦する東大野球部の青年監督だった。いわば
あこがれの人である。是非いろいろ野球の話を伺いたいと思い、
「日本人の球心」の面接授業を申込んだ。

終了後のレポート課題は、明治期の野球指導書の一部を
600字で要約せよとのものであったが、それ以外にも講義に
関することを書いても良いとのことで、私は図書館に通い詰め、
参考文献23冊を読み、最近の野球選手養成の問題に関する
7200字ほどのレポートを2週間で仕上げて提出した。

次学期、先生の別の面接授業を申し込み、やや遅れて出席
すると、いきなり「ああ、○○さん来られましたね」と言われて
びっくりした。あの大人数の教室で、名前どころか、顔まで
割れていたとは・・・。

卒論指導でお世話になった先生方は勿論、同窓会の世話役を
して知り合いになった先生、面接授業で名前を覚えていただいた
先生など、教授とのコミュニケーションは、若い頃通った大学と
比較しても決して少ないことはない。

様々な機会を利用して、積極的に教授との接触を図ることは、
勉学意欲の継続に大いに役立つと思う。

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